「理想の家族像」への違和感

祖父宅で過ごした元日。
久しぶりに、叔父母一家とうちの実家が勢揃い、大所帯なお正月。

新年早々の母親との喧嘩を通して思ったこと。
「理想の家族像」なんて単なる虚像、家族プレイでしかないのでは、という考察。

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事の発端は、元旦。叔母からの1本の電話。
うちの家族+祖父で5人、静かに過ごすはずのお正月に、急遽叔父母一家が室内犬2匹を連れて乗り込むと言う。
今までは、両家が揃うと互いに気を遣う、祖父が気疲れするという配慮から、時間帯をずらしてきた。
しかし今回は、母親がその申し入れを快諾、むしろ「みんなでワイワイ仲良くご飯を食べたいから、早く来てくれ」と言う。

は?どゆこと?

完全に休息モード、ニューイヤー駅伝を見終えて、小説も読み終わり、のんびりお茶をすすっていた私は抗議する。
「そしたら、互いに気を遣って疲れるから、うちの一家は早めに帰ろう。私は元日まで気を遣いたくない。しつけの不十分な室内犬連れてこられても困る。両家が別々なら、ご飯の支度も楽になるし、おじいちゃんも楽になるのでは」と提案。

その提案が、母親の逆鱗に触れる。ヒステリックな母親は泣き始める。
「何でそんなこと言うの。あんたらも叔父母一家と仲良くしなさい。私達が先に死んで、葬式を協力してあげるんだから、親族みんな仲良くするのは当たり前でしょう」

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母親の言葉から、母親の押し付ける「理想の家族像」に対して、私自身が違和感を持っていたことに気づく。

母親の抱く「理想の家族像」とは、
娘共が皆結婚して子どもを生み、定期的に子連れで実家に行き、孫を可愛がる、従姉妹間も兄弟間も分け隔てなく仲良くなり、◯◯家という家系の付き合いを円滑にすること。
それは一般的にはとても美しい形である。
私も少なからずその恩恵に肖ってきたから、それはわかる。

でも今、いざ当事者になる年齢にさしかかり、「さぁお前もその役目を果たせ」と言われた時に気づく。

果たしてそれは理想なのか。
今まで当たり前に思ってきた「理想の家族像」は、実は当事者間の、半ば「家族プレイ」とも形容される小さな努力の積み重ねを通して維持されてきた、単なる虚像に過ぎないのではないか。
皆何かしら「家族」に対して幻想を抱いている。それは事実であろう。
しかし、その「理想」の内実は、各々違う。もしかして内実なんてないのかもしれない。
ただ、空虚な「家族」という枠組みだけが、神聖化される。

恵まれた家庭に育てられたのに、こんなこと言う資格がないのは重々承知だが、今は、この「家族」という枠組みが、母親の押しつける「理想の家族像」が、ただただ気持ち悪い。

ヒステリックな母親には何を言っても通用しないから、その場で平謝りして場を収めたけど、釈然としない気持ちを残して、実家を離れた今日。f:id:colorfuloops:20160103001502j:image

あぁ、疲れた。おやすみなさい。