「普通の日常」の枠にはまれなくてもー角田光代『トリップ』

2016年ブックレビュー第3弾。

トリップ (光文社文庫)

トリップ (光文社文庫)


舞台は東京近郊の街。
普通の人々が、普通の日常を送る街の中で、「普通の日常」にうまくはまれない人々の生き様を描いた短編集。
同じ舞台の中で、駆け落ちに失敗した女子高生、ジャンキーな専業主婦、バリキャリ女子のヒモたる専業主夫、ぱっとしない肉屋の主人に嫁いだ嫁、大学の同級生を追いかけるストーカー、いじめに遭う小学生etc.何かしらいびつさを抱えた人々の物語が展開される。

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中でも、 物語の先陣を切った『空の底』がとても印象的だった。

主人公は、駆け落ちに失敗した女子高生。
”わたしは道を踏み外してみたかったのだ。道を踏み外すということがどういうことなのかわたしはきっとよくわかっていないんだろうけど、高校生の駆け落ちはわたしの想像する範囲で「道を踏み外す」行為に思えた。”(角田光代『トリップ』光文社文庫 p.8 l.7-9より引用)

駆け落ちは失敗に終わり、またいつもと変わらぬ日常に戻る。
しかし、その日常は、主人公にとっては、決して「普通の日常」ではない。

主人公はこう語る。
”彼(=主人公の父親)は(中略)自分が道を踏み外すことなんかないと思っている。(中略)たとえこの家庭が自分の望んだものとは少々違うものであったとしても、何もかわらずずっと続いていくのだと、(中略)思いこんでいる。そしてそのことはわたしが今もっともおそれていることだった。”(同掲書p.20 l.2-7より引用)
”毎日がまた駆け落ち以前と同じくまわりはじめたことに少々傷ついた。”(同掲書 p.20 l.10-11より引用)

彼女は「普通の日常」の脆さに気づいてしまった。もう元には戻れない。
ある日、彼女は学校を早退し、突然川べりで叫び始める。
通りすがる人たちの怪訝な目線を浴びながらも、
”道を踏み外すというのはそれほどむずかしいことでもなくて、だれでもこんなふうに毎日、道を踏み外し続けているのかもしれない。”(同掲書 p.26 l.16-p.27 l.1より引用)
とふと思う。

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「普通の日常」の枠にはまれない、いびつさを抱えながらも、人は生きる。
『空の底』の主人公の女子高生だけではなく、各々の物語で、同じ平凡な東京近郊の街を舞台にしながらも、主人公達が泥臭く生きる姿は、どこか滑稽にも思えるし、一方で希望をも見出せる。

会社員だったり、良き妻、良き母、良き娘だったり、といった、既存の鎧をうまく着こなせない方にオススメの本。
この本を読んで、「さて、明日からまた、会社員プレイの日々だ!」と吹っ切れた、冬休み最後の1日だった。


とにかく、描け。ー東村アキコ『かくがくしかじか』全5巻

「合わせる顔がない」
そう思い込んで、長年お会いしていない方がいる。

中学時代にお世話になった、某国際NGOの代表。
人間関係が上手くいかず、日本で、私の住む街で、私の通う中学校の小さな教室の中で、自分の居場所を見つけられなかった中学2年の私は「国際NGOで、貧困に苦しむ発展途上国の子どもたちを救う」と言い出した。
今思えば、単に自分の足元を見る勇気がなかっただけで、発展途上国の子どもたちのことなんてこれっぽっちも考えず、当事者の方々に本当に申し訳なくなるのだが、当時はその考えに固執し、周りの大人たちに豪語していた。
そのNGOの代表の方は、そんな若気の至りな当時の私に、多大な期待を寄せて下さり、
「本当に現場で働きたいなら○○をするといいよ」
「××の分野に興味があるなら、人を紹介するよ」と、彼女の時間と厚意を私に与えて下さり、さらには、私がぽっと出で言い出した募金活動にまで、協力してくださった。

しかし、私は彼女の期待には応えなかった。
国際NGOのこの字も出ないようなドメスティックな業界で、デスクワークの日々を送る。
貧困に苦しむ子どもたちに想いを馳せることもなく、のうのうと東京での生活を謳歌する。

毎年実家に、その代表の方から年賀状が届く。
彼女自身の活動の近況報告と「あなたもご活躍されているかと思います。陰ながら応援いたします」との一文。
毎年その一文を目にする度に「今の私は、当時豪語していた程大そうな人間ではない。私に与えて下さった時間とご厚意に見合うものを、私は差し出せない」という申し訳なさが募る。

期待に応えなかったことへの申し訳なさ。
誰でも少なからず、お世話になった人に対して、抱いたことがあるのではないだろうか。

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前置きが長くなったので、本題へ。
このエピソードを思い出したきっかけは、東村アキコ『かくがくしかじか』だった。
2015年の漫画大賞を受賞した作品である。
この作品は、女版『まんが道』とも言える、東村アキコ自身の自叙伝的作品。
主人公・林明子(=東村アキコ)が、絵画教室の恩師・日高健三先生に出会い、美大に入りモラトリアムに突入、卒業後日高先生の教室を手伝うようになり、会社員をしながら漫画を描き、専業漫画家として活躍するに至るまでの物語。
日高先生は逝去されており、物語は「ねぇ、先生」と先生に語りかける形で進む。

日高先生は、明子に多大な期待を寄せる。
二人展をやろうと持ちかけたり、自身の肺がん発覚の際には「教室を継がんか」と声をかける。
一方、明子は「漫画家になりたいから美大に行きたい」と先生に言えないまま絵画教室に通い続け、
二人展や教室の後継者の件をはぐらかしたまま、先生と関わり続ける。
そして、日高教室を継ぐという選択はせず、日高先生は逝去。
物語の随所に「ごめんね、先生」と、先生への謝罪と見られる語りが入る。

主人公の明子が、何に対して謝罪をしているのか、作品中に明記されているわけではない。
だが、若気の至りゆえに、中途半端にしか絵に向き合えなかった明子の描写と、その物語の中に挿入された「ごめんね、先生」の語りに、どうしても、お世話になった方への期待に応えなかった過去の自分の姿が重なる。
思い出して、共感し、恥ずかしくなり、そして切なくなる。

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会社員と絵画教室とのダブルワークに忙殺される日々からの脱出を図り、明子はいよいよ漫画を描き始める。
漫画を描き始めてからの明子は、一心不乱に、描くことにのめり込んでいく。
その明子の姿は、あたかも過去の中途半端な自分への償い、すなわち「絵に向き合えなかった償いに、漫画に没頭する」ようにも映る。

「とにかく、描け」
絵画教室で日高先生は、幾度となくこう生徒に告げる。
主人公・林明子も、自身の経験から過去を振り返り「絵をやる人間に、モラトリアム期間なんて必要ない」と悟る。

そして、明子は漫画を描く。
現在では、東村アキコは、10人以上のアシスタントを雇い、月間累計100ページを描くこともある、多作の作家として名を挙げている。

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話は冒頭に戻る。

「合わせる顔がない」
お世話になった方の期待に応えなかったことへの償いは、ただ一つ。
「ここで踏ん張る」と決めた世界に骨を埋めることなのではないか、とふと思う。

「しのごの言わずに、とにかくやれやゴルァ‼︎‼︎」とボディーブローを受けたような衝撃を、私に与えた漫画だった。

正月ボケから抜け出したい方、ぜひどうぞ◎

「理想の家族像」への違和感

祖父宅で過ごした元日。
久しぶりに、叔父母一家とうちの実家が勢揃い、大所帯なお正月。

新年早々の母親との喧嘩を通して思ったこと。
「理想の家族像」なんて単なる虚像、家族プレイでしかないのでは、という考察。

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事の発端は、元旦。叔母からの1本の電話。
うちの家族+祖父で5人、静かに過ごすはずのお正月に、急遽叔父母一家が室内犬2匹を連れて乗り込むと言う。
今までは、両家が揃うと互いに気を遣う、祖父が気疲れするという配慮から、時間帯をずらしてきた。
しかし今回は、母親がその申し入れを快諾、むしろ「みんなでワイワイ仲良くご飯を食べたいから、早く来てくれ」と言う。

は?どゆこと?

完全に休息モード、ニューイヤー駅伝を見終えて、小説も読み終わり、のんびりお茶をすすっていた私は抗議する。
「そしたら、互いに気を遣って疲れるから、うちの一家は早めに帰ろう。私は元日まで気を遣いたくない。しつけの不十分な室内犬連れてこられても困る。両家が別々なら、ご飯の支度も楽になるし、おじいちゃんも楽になるのでは」と提案。

その提案が、母親の逆鱗に触れる。ヒステリックな母親は泣き始める。
「何でそんなこと言うの。あんたらも叔父母一家と仲良くしなさい。私達が先に死んで、葬式を協力してあげるんだから、親族みんな仲良くするのは当たり前でしょう」

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母親の言葉から、母親の押し付ける「理想の家族像」に対して、私自身が違和感を持っていたことに気づく。

母親の抱く「理想の家族像」とは、
娘共が皆結婚して子どもを生み、定期的に子連れで実家に行き、孫を可愛がる、従姉妹間も兄弟間も分け隔てなく仲良くなり、◯◯家という家系の付き合いを円滑にすること。
それは一般的にはとても美しい形である。
私も少なからずその恩恵に肖ってきたから、それはわかる。

でも今、いざ当事者になる年齢にさしかかり、「さぁお前もその役目を果たせ」と言われた時に気づく。

果たしてそれは理想なのか。
今まで当たり前に思ってきた「理想の家族像」は、実は当事者間の、半ば「家族プレイ」とも形容される小さな努力の積み重ねを通して維持されてきた、単なる虚像に過ぎないのではないか。
皆何かしら「家族」に対して幻想を抱いている。それは事実であろう。
しかし、その「理想」の内実は、各々違う。もしかして内実なんてないのかもしれない。
ただ、空虚な「家族」という枠組みだけが、神聖化される。

恵まれた家庭に育てられたのに、こんなこと言う資格がないのは重々承知だが、今は、この「家族」という枠組みが、母親の押しつける「理想の家族像」が、ただただ気持ち悪い。

ヒステリックな母親には何を言っても通用しないから、その場で平謝りして場を収めたけど、釈然としない気持ちを残して、実家を離れた今日。f:id:colorfuloops:20160103001502j:image

あぁ、疲れた。おやすみなさい。

結婚を問い、結婚に迷う。ー岡村靖幸『結婚への道』

2016年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年1冊目の読書。

岡村靖幸 結婚への道

岡村靖幸 結婚への道


ファッション誌『GINZA』での人気連載の書籍化。
結婚経験がなく「結婚したいけど、どうしたら理想の相手に出会える?」etc.「結婚」を前に逡巡するシンガーソングライター・岡村靖幸氏が、既婚、離婚経験、事実婚、結婚願望なし…etc.、結婚に対してさまざまな経験や価値観、考えを持つ著名人に「結婚とは何ぞや?」を問い、語り合う対談連載。
コピーライター糸井重里氏、堀江貴文氏、坂本龍一氏etc.各界の名だたるゲスト30名の対談が収録されています。

とにかく興味深い…!
「結婚はいい。深く考えずに一度してみるといい」
「結婚はオススメしないけど、子どもはいいよ」
「制度上の結婚には異議あり
「結婚は権利を示すためのもの」etc.
30人それぞれの多様な結婚観が語られ、
「結婚したいけど、…」の動機から始まった岡村ちゃんのスタンスが、「そもそも結婚すべき?」「結婚しない・できないのは何故?」etc.迷宮に入り込んでいく様子が面白い!
いち読者の私自身も、新年早々迷宮入りしました。

この本を読んで、既婚者が、子持ちのママさんが、離婚経験者が、事実婚関係を続ける方が、どう思うのか、非常に興味津々です。
「適齢期やノリetc.で結婚」な流れに乗り切れない方、何となく結婚したけど、ふと立ち止まって考える機会が欲しい方etc.「結婚」を考える方にオススメです◎

これからどうしようかなぁ。
「あんたもそろそろ…」と口うるさい実家の母親の言葉を聞き流しつつ、ふと思いに耽った元旦でした。



怒りの感情と向き合う。ー怒らないことー役立つ初期仏教法話〈1〉(サンガ新書)

自分自身に対してなのか、周りに対してなのかはわからないが、何か無性にイライラする。気持ちが不安定になる。
そんな原因不明の怒りが、ここ数日ずっと収まらないので、以下の本を手に取った。
▪️怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4901679201/ref=cm_sw_r_awd_N7RlwbK178166

 ”「私は正しい」と思うから怒る。「私は間違いだらけ」だとわかると怒らない。”(p.35 要約)
”「自分は完全ではないし、他人にもけっして完全な結果を求めない」という思考が、この世の中で我々が落ち着いて生きていられる秘訣です。”(p.41 L5-6)
”「怒っている自分には、理解力も合理性も客観性も何もないのだ」ということを心の底から受け止めてください。それができるようになると、もう怒れません。”(p.139 L10-11)
 ”怒りが生まれたら「あっ、怒りだ。(中略)」とすぐ自分を観てください。怒りそのものを観察し、勉強してみてください。「今この瞬間、私は気持悪い。これは怒りの感情だ。ということは今、私は怒っているんだ」と、外に向いている自分の目を、すぐ内に向けてください。”(p.142 L5-8)

怒りは誰の為にもならない。自分の幸せも周りの他人の幸せも破壊する。
自分の怒りを見つめなさい、そうすれば自ずと怒りは収まる、と著者は説いている。

つい怒りの感情のままに、ネガティヴなツイートを垂れ流したり、お酒の勢いを借りて友人に愚痴ったりしがちな私。
感情で我を失っている己自身に目を向ける。
まずはこの心がけから始めようと思う。

最近イライラが収まらない方、ネガティヴな感情を持て余している方にオススメな本。
興味のある方は手に取ってみては◎

ライターに必要なものって何だ。

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「人が歩む人生の物語を書きたい」と、文章教室に通い始めた。
読者として、小説やエッセイ、対談記事等を読む中で、「こんな風に書きたい」とライターの視点から思うものの、いざ書こうと思うと書けない。語彙も表現力とない。そして何よりも場数が足りない。その練習の場が欲しい、と、とある文章教室に飛び込んだ。

メンバーは私を含めて6人。私以外は、長年随筆を書き続けてきた、近所在住の60歳以上のおばあさん達。生きてきた世代がまるで違う中に、ぽつんとアウェーな私1人。

生きてきた世代も経験値も違う方に囲まれていて思ったこと。
小手先のスキルだけじゃ、人の心に残る良い文章は書けないのではないか?という問い。

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教室の中に、70代後半の女性がいる。
この中で唯一、太平洋戦争を経験した方。
彼女が描いた、縁故疎開の思い出を題材にしたエッセイに私は感銘を受けた。

その当時の記憶が鮮明なことにも驚きだが、何よりも驚いたのは、そのエッセイのテーマが「温かな母親の愛情」であることだ。
縁故疎開で離れて暮らす母親が、自分に会いに来てくれる時に洋服を持って来てくれる。
その洋服にしみ込んだ母親の匂いに安心感を感じる子供の頃の彼女。
クラスメイトは、毎日違う洋服を着る彼女をからかうが、彼女はそれをも誇らしく嬉しく思いながら、服を着て学校に通うというエピソード。

戦時下のエッセイ、というと、漫画の『はだしのゲン』を始め、人の死や戦争の悲惨さをメインに描いたものが主流な気がするが、彼女のエッセイには、そうした悲惨さは表には出ていない。
しかし、毎日違う服を着る彼女をからかうクラスメイトの姿等に、戦時下の人々の貧困や生活苦が滲み出ている。
表立って言葉でははっきり書いていないからこそ、差し迫るものがあった。

「このエッセイは、戦時下を生き抜いた、そしてその中でも家族の温かな愛情を受けて育った、彼女にしか書けない」文章教室の先生含め、メンバー全員がその意見で一致する。私も同じくそう感じた。
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ライターに必要なものって何だ。
その1つに、ライター云々は抜きにして、人としての厚み・深み、みたいなものがある気がする。
そんな文章教室1日目。

2日目の教室が迫る。ネタがないなりに、私もHP向けの記事やエッセイを書く。2回目の学びは何だろう。わくわくしながらキーボードを打つ。教室のメンバーの方々には、到底経験値や人生の厚みにおいて及ばないが、私は私なりに、何をどう書こうか試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ厚みを増していきたいなと思う。

「わからない」から始まる対話。

「私にあなたのことはわからない」
この前提に立って対話を始めることが大切だなぁと思う。

先日、ある女の子へのインタビューにて。
彼女の生い立ちから今に至るまでの話を聞く中で、彼女はこう言った。
「日々の生活を丁寧に生きたい」

「日々の生活を丁寧に」というのは、私の生活のテーマでもある。
「それわかるなぁ」とその場で私は言った。
なので、その言葉については、インタビューではあまり深追いはしなかった。

しかし、インタビューのテープ起こしをしていて、ふと思った。
彼女は何でそう思ったんだろう?

彼女の生い立ちや性格から、その結論に至ることは予測がつくが、それはあくまで予測でしかない。

「日々の生活を丁寧に」という、最終的に行き着いた言葉は同じでも、そこに至るまでのプロセスや、そもそもその言葉の意味合いというのは、人それぞれ違う。
ある人は、激務で身体を壊した末にそこに気づいたのかもしれないし、ある人は、ランニング等日々の地道な取り組みから、そう思うのかもしれない。
また「日々の生活を丁寧に」という言葉の意味合いも、「毎日自炊をすること」を丁寧とする人もいれば、「Yシャツにアイロンを丁寧にかけること」を丁寧とする人もいる。

彼女がそこに行き着いたプロセスや、彼女なりのその言葉の定義は、彼女にしかわからない。
私はそのストーリーを、インタビューで聞くべきだったのだ。

根底にある想いや価値観が似通った人と話していると、あたかもその人のことを理解したように思い込みがちである。
しかし、他人を100%理解することなんてできない。

「あなたのことはわからない。」この前提から対話を始めることが大事。
「わからない。でも、だからこそ、知りたい」この好奇心を大切にして、今後いろんな人にインタビューをしていきたいなぁと思う。